比企能員の変の真相

噂では聞いていたのですが、ついに鎌倉殿の13人に慈円が登場しましたね(*⌒▽⌒*)実は慈円が著した「愚管抄」では、北条得宗家が後に書かせた「吾妻鏡」と全く違う記述がいくつもあり密かな楽しみでもあります。


という訳で今回は比企能員の変(乱)の真相です。

 

本当は怖い比企能員の変の真相

 

きっかけは頼家重病により、北条主導による一幡と千幡による権力分散相続案にありました。


激怒した比企能員重篤の頼家に報告し、北条追討を決意したのですが、政子が障子の陰から立ち聞きし(家政婦は見たかよ!)実家に報せることになるのですが・・・。

 

とこれは北条得宗家が後に書かせた「吾妻鏡」の記述です。

 

愚管抄には分散相続の話は出てきません。もちろん政子も立ち聞きして市原悦子さんのように「面白くなってきたわよ」なんてつぶやきません(;¬_¬)/ジー

 

大体生死の境を彷徨うほどの大病の頼家に、「北条がいけないんだ」なんて比企能員がチクるはずがありません。ましてや療養していたのは北条の息がかかる大江広元の邸ですし(-_-)

 

つまり比企能員の変は、比企能員誅殺などではなく、北条の一方的なクーデターだったということになります。

 

ですから一幡を助けるなんて気持ちはサラサラなかったということになります(寧ろこちらが主目的)。

 

ただ誤算だったのは比企一族を全滅させた後、頼家が奇跡の生還を遂げたことでしょう。

 

愚管抄によると頼家の死亡は既に朝廷に届けられていて(もちろんまだ生きてる段階で)、慌てた北条は刺客を送って2度死ぬことになったようです(007 かよ!(>_<))

 

また若狭局(せつ)が一幡を抱いて逃げたくだりは愚管抄にも記述があり、義時の家人に見つかってとどめを刺されたようです(もちろん日本で初めてブランコを作った善次ではありませんΣ( ̄□ ̄)!)。

 

比企能員の変は頼朝存命の頃から予見できた?

話は少し戻るのですが、頼朝は大切な世継ぎである頼家の乳母(後見役)を妻の実家ではなく、なぜ比企一族と梶原景時を選んだのでしょうか?もちろん比企尼への恩(比企尼の人物像参照)や公家の倣い(嫡男は実母ファミリーではなく乳母が育てる)もあるのでしょうが、一説には北条への権力の偏りを避けるためという説もあります。

 

つまり自前の武士団(譜代の家臣)を持たない頼朝は、特定の御家人が幕府を脅かすほどの勢力を持っては困るということです。

 

もちろん頼朝でなければ平家を倒すことができなかったのでしょうが(番組では夜這い好きの変態ジジイに扱われましたがΣ( ̄□ ̄)!)、北条の専横には決定的な歯止めをかけることはできませんでした。

 

ひょっとしたら馬から落ちたのも北条の・・・。

 

 

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